| № | 放送日 | タイトル | 法 話 |
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| 780 | 2026年1月1日~ | 年頭のご挨拶 | 大垣別院輪番 王来王家 純也 |
| 明けましておめでとうございます。 旧年中は、ここ大垣別院に温かいご支援・ご指導をたまわりましたこと、誠にありがとうございました。本年も引き続きのご支援・ご指導のほど、何卒よろしくお願い申しあげます。 最近、何気なく藤元正樹先生の著作、『人間この尊きもの』を開きました。そこには、私が数年前に読んだ折に引いた赤線が残っており、その箇所を目で追いながら、ぼうっと読み返しておりました。すると、ある一文が改めて目に留まりました。それは、「回心の方向転換とは、生から死の方向に自らの生存を位置づけるのではなく、かえって死して生きる方向に自己の生存在を位置づけることにほかなりません。」≪中略≫「生から死への位置づけの中でとらえられる生涯は、人生の唯一回性を示すものでありますけれど、死から生への視座を獲得する時、生は無量無辺の展開を持つのであります。」という一節です。 十数年前に一度心に引っかかりを覚えたこの一節が、時を経て再び私の心に引っかかってきたことに、不思議な思いを覚えました。当時、なぜこの言葉に惹かれたのかは、今となってはまったく思い出せません。しかし、今あらためてこの一文に惹かれる理由を考えてみますと、近年、私自身が「人生は生に始まり、死に終わる。一度きりのものだ」という人生観に、どこか戸惑いを覚え続けているからではないかと思われます。 ある若い方は、「一度きりの人生、楽しまなければ勿体ない」と言い、またある人は、「一度きりの人生、これでよいのだろうか」と悩みます。さらに、あるご高齢の方は、「人生の終わりが近づき、終活をせねばならない」と口にされます。そこには、「死んだら終わり」という人生観が、少なからず横たわっているように思われます。もちろん、だからこそ「一日一日、一瞬一瞬を精一杯生きることが大切だ」と教えてくださる方もおられます。しかし、なぜか私自身は、その考え方に十分に納得できず、さまざまな混乱の根底には、私の中にも頑然とある、「生」を出発点とし、「死」をゴールとする、そしてそのゴールが暗く悲しいものであるという人生観があるように思えてならないのです。 釈尊が老・病・死に出遇われて出家されたと伝えられ、また宗祖親鸞聖人が、「良き人にも悪しきにも、同じように生死出ずべきみち」があることを、本願念仏の一道として、法然上人との出遇いを通して明らかにされていることが思い起こされます。さらに、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」と語られてきた先達の歩みにも学びながら、私自身もまた教えに聞き、歩みを進めてまいりたいと思っております。 本年も大垣別院が、教えに出遇い、語り合い、支え合う場として、少しずつでも開かれていくお手伝いができましたら幸いに存じます。新年のご挨拶とさせていただきます。 |
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